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 桂林寺と小山田氏 



   郡内小山田氏の祖先は武蔵国多摩の平氏一族で、源頼朝の有力な御家人であった武州小山田荘
  (東京都町田市)の荘官有重の子、行重であると『甲斐国志』に記してあります。
  小山田氏という姓の発祥はこの小山田荘という地名に由来しています。
  有重の子、重成・重朝・行重らは源平合戦で頼朝について大功をあげた名族であります。

   時代は鎌倉・室町・南北朝と流れ、郡内は小山田氏が治めるようになります。
  有重の子、行重が田原の別当職に任ぜられ都留郡に入ってきたのが郡内小山田氏の始まりです。

   小山田氏が都留入りして最初の館をどこに構えたかは、はっきりと分かっていませんが
  『妙法寺記』によると「享録三年(1530)三月 中津森ノ館は焼ケル。」とあり、
  更に「享録五年(1532) 谷村へ居館を建テ一族郎党ト引キ移ル。」とあることから
  郡内小山田氏初期の頃には中津森に館を構え、火災で館を焼失したために
  一族は谷村に移転したと考えられています。
   また『甲斐国史』には「中津森の館跡は用津院ノ東ニ在リ」と記されていることから
  館は用津院と桂林寺の間にあったと考えられ、その堀の一部も現存しています。
  初めから中津森(金井)に館を構えたとする見方が有力であり
  桂林寺創建が明徳年間(1390〜1394)であることから、この頃までには
  中津森に館を構えていたことが推測できます。

   明徳年間、この地に遊化していた鎌倉建長寺の格智禅師に深く帰依した信澄が、禅師を開山に請い
  自らの道号「冨春」を山号とし桂林寺を創建しました。
  その後も小山田家の大きな力と信仰の深さにより、桂林寺の末寺を次々と創建しました。
  (東陽院・冨春寺も、小山田氏によって建立された桂林寺の末寺であります。)

   小山田氏は在地領主として地歩を固め、武田氏と拮抗する勢力を保っていました。
  南北朝時代には小山田信澄の息女(小山田氏系図参照)が武田家13代信満に嫁ぎ
  武田家14代信重とその弟信景の母となり、武田氏との関係が深まっていきました。

   さらに小山田信光の息女は武田家16代信昌夫人となり、武田家との関係を深めます。
  しかし武田家の家督争いで武田家と戦うこととなり、敗戦し、小山田氏は武田氏に従うようになりました。

   越中守信有は武田家16大信虎の妹を妻として迎え、以後は武田親族衆として活躍しました。

   武田信玄の時代になると、郡内領主は信茂へと継がれていきます。信茂は武田の智将と言われ
  24将に数えられ、「いくさ評定七人衆」とも言われるようになりました。
  川中島の戦、滝山城をはじめとする北条との戦、三方が原の戦など数々の戦で戦功をあげました。

   武田勝頼の時代になると信茂の存在は更に高まり、重臣中の重臣となり各地を転戦しました。
  また、北条氏や上杉氏との外交取次ぎ役として政策上かかすことのできない存在でした。
  しかし天正10年(1582)織田・徳川連合軍の甲斐攻めで武田家は亡び、間もなく信茂も
  甲斐善光寺にて織田信長により処せられました。

   このように桂林寺は小山田氏初期から中期にかけての菩提寺であり、
  長生寺を建てた信有代以降も小山田氏によって厚く保護されました。
  永録年間には、当寺院は信茂によって諸堂改修されたと記されています。




小山田家代々の墓 小山田氏系図
♦ 桂林寺にのみ残る小山田家の法名は以下の通りです ♦
 
  名前 戒名
六代 出羽守信膳 元享院殿前法印一圭宗徳
七代 兵部小輔信惠 住法院殿円外浄心
八代 出羽守信澄 桂林寺殿桂堂香公
九代 出羽守信朝(朝信) 東陽院殿功岩永公
十代 備中守信美 冨春寺殿功用勲公
十四代 山城守信隆 福聚院殿徹山道隆
十五代 越中守信有  
十六代 出羽守信有  
十七代 出羽守信茂